「生命ある芸術のために」

渡部誠一

 私はつねに、美を追求してきました。
 美には様々なものがありますが、形に現わすことの出来る美が、私の領域です。形になった美といえば、障子の格子の美しさなども素敵です。が、そのなかで私は「生きている美」を追求してきました。
 美を具現する手段として必要な技術の練磨が毎日欠かすことの出来ないことは申し上げる迄もありません。その上でのことですが、本当の美とは「奇麗」を超えたところに在ることが分かりました。
 近代以降の日本では、芸術と工芸とが分離されて二大潮流となり、その隔ては今なお続いています。一つは、江戸時代に完璧の域に迄達した技術にどれだけ近づけるかを主旨とするもの。他の一つは、高度の技術の練磨は必要とせず芸術性の追求を主旨とするものです。
 私の目指している「生きている美」は、そのどちらにも見出すことができませんでした。私は、鍛えられた工芸の技術を駆使して「奇麗」を超えようとしました。

 それは、思いがけずも、世の風潮に逆らうことであり、孤立の人生を歩むことになってしまいました。
 作家にとって一番大切なことは、「いい作品を作ること」ではありません。もっとも大切なのは、「生きること」です。そのとき、そのときを誠実に生きること、その積み重ねとしての毎日の暮らしを精一杯に生きることです。私が、人に対していつも思ったままを正直に申しあげるのも、それが相手に誠実に対することだと信ずるからです。作品というものは、作者の生活の中からしか生まれません。
 文化とは、それにまつわる「知識」ではなく、一人ひとりの「心」の問題だと思います。近頃は、人の「能力」というと名利獲得につながるものを指すようになってしまいました。然し、初夏の苗代を風が渡るのを見ることが出来、初冬に落葉が木枯しに転がる音が聞こえる人の感覚も、相手の身になって物事を考えることが出来る人の心だって、人の有つすばらしい能力のはずです。人の欲望に添ったものだけが商品価値あるものとする考え方が、大手を振って日本を、世界を歩いています。便利と物量獲得の美名の下、合理化の誤用を為し、人々は新幹線が出来て手にした余剰時間をゆとりにではなく、更なる経済競争に使ってしまいました。学校では、クラスの大半の子が参加して、たった一人の子に対してその人間性が破壊される迄の陰湿なイジメを加えることが、毎日、行われています。
 殺らなきゃ殺られる経済戦争。
 いったいそんなにも人をやっつけて人が幸せになれると思っているのでしょうか。自由にはそれに見合った強い自制心と倫理が必要でありますのに、どこ迄この無益な競争、いや戦争を続ける積りなのでしょう。

 この考え方は当然のことながら木工芸の分野をも侵しました。
 たとえば、漆器の工場による大量生産方式がそれです。
 化学塗料に5%だけ漆を加えて漆の臭を作り、それをスプレーガンで吹きつけるという手抜き法で、長い修練の必要がなく、安い賃金で働かせることの出来る主婦のパート労働者を集めて為されました。このモウカル方式は、「やる気と能力のある」若年の経営者によって考え出され、事業は大成功し、経済発展に貢献しました。遂には労賃の少ない外国(中国、台湾、フィリピンなど)で漆器を”造らせ”輸入する業者も現われました。日本人は喜んでこれを買い、使いました。
 そして、もはや不要とされた多くの職人達は、その職を失ったのです。
 江戸時代の一般庶民のお椀は、椀木地に直接漆を塗り、五回程塗り重ねたものです。漆の使用量を少なくする為、木地に目止めをしてから漆を塗る、などということをしない塗り方でありますから、その丈夫さはお椀がゆがんでも漆がハガレルことなどありません。5%の漆を混ぜた化学塗料をスプレーガンで吹きつけなくても、一般庶民は出費して比較的安価なお椀を使用していたのです。

 かくして我が国には使い捨てなどという思想が受け入れられ、人々の生活から、日用のお椀を大切に扱いながら食に感謝し、うるおいのある感覚を得ていた日常は失われてしまいました。そして職人の多くは消え、跡継ぎも又、他職業を望み、この国から大切なものが失われてしまいました。
 時流に逆らうことになってしまった私の作品は、市場には流通せず、何も無ければ何も無く、この私も又、この社会から消されてしまう一人なのでありますが、人々の御力添えと神仏の御加護により七十歳の今日迄生命長らえ仕事を続けることが出来ましたことは深く深く我が血肉より感謝するところであります。
 残念ながら、合理化すべしという思潮が日本を覆って久しく、今では漆の魅力を本当に伝えている工芸品は実に実に少なくなってしまいました。
 たとえば漆塗りでは、漆を塗っては研ぐということを何度も繰り返しますが、塗った漆が下層の三割程しか残らないまでに研ぎあげなくては、漆の本来の強さと美しさは表れてきません。しかし、それではいかにも不経済です。というわけで、ここでも又、妙な合理化が顔を出し手抜き工事が行われます。それが普通になっているために、漆塗りとはそういうものだと思っている方も多いようです。又、漆自体も、上中下の三段階の品質がありますが、「合理化志向」では、もちろん最下等使用が採用となります。

 私は、かつての日本で育まれた文化を愛しています。それゆえに現在の日本社会には、大きな危惧を抱いています。
 合理化という言葉のもと一人ひとりの心などは無視するのが当然という風潮が強まる一方で、思いやりや心のゆとりが大事だなどといった空ろなキャッチフレーズが大安売りされている今日の社会は、一人ひとりで感じ考えるということを拒絶した人々によって生み出されたものでしょう。
 日々をいかに生きているかということと創作活動とは、まったくひとつのことであり、切り離すことはできないのです。
 だからといって、「作品を見れば作家がわかる」などとは、おっしゃらないでください。私は、私を表現するために作品を作っているわけではありません。私は、美を追求している者です。自分を知っていただきたくて作品を作っているわけではありません。むしろ美を追求するうえでは、自分を出すということは、極力抑えねばなりません。その抑えるということにこそ、もっとも力を傾けねばならないのです。
 これ以上でも以下でもいけないという、ぎりぎりの臨界で鑿を止めること。それが木彫のすべてです。
 必要にして十分な、ぎりぎりの一点。そこは、近づけば近づくほどに、遠く見えてくる場所です。より遠くまで見えるようになるからです。これまでの五十二年間の追求は、今日の制作のための基礎であったとも思われてきます。今なお、私はその追求の途上にあり、これからもありつづけるでしょう。
 そうありつづけるには、ひとときひとときを誠実に生きねばなりません。そうしなければ、求めるぎりぎりの一点が見えなくなってしまいます。
 ですが、私は、そこを見てほしいというつもりはありません。お一人お一人が感じられたそのままが、その作品なのです。いろいろと申しましたが、作者の言葉とて、作品には不要です。願わくは、ただ作品そのものを感じ、味わっていただけましたら幸いです。


2006年 個展 『漆芸の風狂 渡部誠一近景』